エイベックス60年の歩み/AVEX記念誌

AVEX記念誌

創立60周年の節目を迎えたエイベックス。そのルーツを遡れば、名古屋市瑞穂区の黒田精機製作所に行き当たる。なぜならば、エイベックス創業者の加藤一明(会長・以下一明)がかつて修業し、仕事を覚え、そして巣立った会社が黒田精機の前身、黒田鉄工所なのだ。

その経緯を、同社の元社長で現会長の黒田保彦氏はこう述懐する。
「黒田鉄工所は、大正14年に私の父が創業した会社です。一明さんと私は(同郷)のいとこ同士で、その縁で、うちに丁稚奉公に来ていただいたのですよ」。
一明の出身は岐阜県の輪之内町。黒田氏の母親と、一明の父親がきょうだいという親戚関係にあった。

幼い頃に養子に出され、東京で鉄工の技術を身に付け、名古屋で会社を興した初代黒田清三氏。昭和初期には、既に20人規模の会社に成長していた。同じ同郷の者として、一明(会長)の父には、立身出世の体現者として映ったに違いない。一明の両親は「黒田さんを見習え、黒田さんのところで修業してこい」と、旧制の高等小学校を卒業したばかりの一明を送り出したようだ、と、保彦氏。ときに昭和6年。一明、14歳の春だった。

当時の黒田鉄工所は、鉱山機械(削岩機)の生産・販売を手がけていた。丁稚奉公の世界は厳しい。朝早く起きて掃除をし、職人にどやされながら、追い回されて働いた。仕事は誰も教えてくれない。自分の目で、職人の仕事を盗む以外なかった。休みは、盆と正月以外は無いに等しかったが、当時はそれが当たり前だった。

厳しい親方や先輩職人に怒られ「便所で泣いている事も多かったようです」と、保彦氏。しかし、一明は持ち前の生真面目さと勉強熱心さでメキメキと仕事を覚え、頭角を現していった。

10歳以上年下の保彦氏にとって、一明は『頼れるお兄さん的な存在』だった。「体が弱かった私の手を引いて、盆などには4時間かけて、実家の輪之内まで一緒に連れて行ってくれましたよ」と、保彦氏は当時を懐かしむ。

戦局が悪化し、都市部では空襲の被害が出始めた。昭和18年頃には、黒田鉄工所は工場を名古屋から愛知県の奥町に疎開移転。仕事も、削岩機から航空機の部品製造へと移行した。物資も食料もない、苦しい時代だった。

一明が、黒田家の6人きょうだいの次女(つまり保彦氏の姉)である照子と結婚したのは、昭和20年8月15日。つまり、終戦記念日だ。「一明と一緒になれば、食いっぱぐれることはない」と、父親である黒田清三が一明を見込んで決めた『いとこ結婚』だった。
「見合いも何もありませんでしたよ。親が決めた相手と結婚する。昔はそれが当たり前でした」と、照子は笑う。

8月15日にモンペとゲートル姿で輪之内町に帰り、身内でささやかな式を挙げた。ちなみに式の途中で玉音放送が始まり「ああ、これで安心して暮らせる」と思ったという。
 結婚したものの、疎開先で住む場所もなかった。2人は当面、黒田家との同居暮らしが続いた。

戦争が終わり、空襲の恐怖から解かれると、工場は再び奥町から名古屋に戻ることになった。「堀田のあたりはパロマもみんな焼けてしまったが、不思議とうちの工場は焼け残っていました」。
 一明はもちろん、当時中学生になったばかりの保彦氏も含め、一家で手伝い、馬車で疎開先から機械を移動した。