岩元氏は言う。「結婚して名古屋に来ていた叔母を頼って、鹿児島から出てきたんです。なかなか仕事が見つからなくて困っていたんですが、堀田の洞口工具店という店の壁に『従業員募集』という手書きの張り紙を見て、加藤精機を訪ねていきました」。
初任給は4,500円。通いだった最初の数ヶ月は「ほとんど食費と通勤費に消えました」。お金もなく、靴の底が減らないよう「つっかけの底に鉄板を打ち付けて松坂屋に行ったら、滑ってひっくり返りましたよ(笑)」。住み込みになって、ずいぶんと楽になったそうだ。
一明にとっては、仕事の重要な片腕として。また後輩従業員にとっては、仕事の目標として。岩元氏の存在は、非常に大きかったという。岩元氏の住み込み生活は足かけ10年間続いた。「その間、何人か相部屋で住み込みしていました」。
その後、岩元氏に続き、加藤精機時代の中心を担う邑松、久野、加藤守、山下の4氏が29年~32年の4年間で入社。加藤精機の礎が、この時代に築かれた。