邑松氏は「当時作っていたユニオンは、たこ焼きのような成型部品で、貼り合わせが難しかった。ネジの部分がずれていると油漏れする重要保安部品なので、神経を使いましたね」。当時は15軸ステーションを導入する以前で、ボール盤を何台も並べて作っていた。
ミシン・映写機から、自動車部品へ。しかし、仕事の切り替えは意外なほどスムーズだったようだ。当時の従業員の多くは「高度成長期で、仕事はたくさんあった。それほど製品の切り替えを意識したこともなかった」と言う。
その時のエピソードが一つ。昭和42年、明彦が大学在学中、オートバイで交通事故に遭った。大阪の病院に入院していた明彦を見舞った一明は、ずっと病室で寝てばかりいたという。「後で母親に聞いたら、ユニオンの製造であまりに忙しく、徹夜続きだったそうです。息子の入院を、休む格好の理由にしていたんでしょう」。
思えば照子は、以前から父親に「これからは2輪の時代だ。何とかして、2輪の仕事をしろ」と言われていた、という。しかし結果的には、主たる業務はミシンから、2輪を飛び越して4輪になったのだ。