昭和43年には前述の野村製ピーターマン、44年には針棒メタルやシャフト用の敷島製センターレスを導入。さらに昭和47年には、ユニオン用の3WAY用に15工程同時ステーションマシンを導入した。それまで手作業で行っていた仕事が一気に効率化し、量産体制になったことで夜勤体制も始まった。3WAYは1日で2,000個を作り上げた。
そして昭和51年、ツガミの6軸自動盤を導入。それまでの無借金経営という経営方針を転換し、銀行に借り入れしてまで導入した6軸自動盤は、劇的な効率化をもたらした。
「6軸自動盤は、単軸自動盤の(単純計算で)6倍早い。単軸では2分ほどかかる作業が、6軸では15秒で完了したんです。凄いな、のひと言でした」と、邑松氏は語る。
ちなみに1号機は、加藤守氏が担当した。「本当に自分でできるのか、そんな高価な機械を触らせてもらっていいのだろうか」と、非常に緊張感を伴う作業だったという。
6軸自動盤を導入した同年、加藤精機は有限会社から株式会社に移行している。業務拡張の中で、いわゆる「職人集団の町工場」から「精密機械のプロフェッショナル企業」へと、着実に成長を遂げていた。