エイベックス60年の歩み/AVEX記念誌

AVEX記念誌
昭和59年、社長が創業者の一明から、現社長の明彦へとバトンタッチされる。時に一明、65歳。明彦、37歳だった。「社長交代は、その数ヶ月前まで私にも知らされていなかったんです」。

加藤精機への入社前、明彦は地元の工業高校から大阪工業大学に進学している。この進学にはエピソードがあり「鍛冶屋の息子に学問は不要」という昔ながらの考えの父(一明)を、高校の担任や“黒田のおじさん(黒田精機相談役の黒田保彦氏)”が「これからの時代は、経営を学ばないと時代に取り残される」と、明彦の進学を認めるよう、一明を説得したという。

大学に進学した明彦は、品質管理やIEなど生産工学の全般を徹底的に学んだ。夏休みや冬休みは、大阪の製糸工場や黒田精機へ寝泊まりするなど、実地で訓練を積んだ。
加藤精機に入社後は、そのノウハウを生かし入社後すぐ社内の生産管理を一括して担当。22歳には会長と共に、アイシン精機、アイシンワーナーを中心に勢力的な営業展開を行い、1972年25歳に専務に就任。29歳頃には6軸の導入を試み、会社の主軸となるバルブスプール製造を行うきっかけを作った。それまでの「職人の仕事」をシステム化し、品質管理を強化するなど、時代の要請する改革を進めていた。

それでも、社長交代は明彦にとっては寝耳に水だったようだ。しかし後日、父・一明の作成したアルバムを開くと「『社長交代は、数年前から考えていた。65歳にして、やっと社長交代ができた』と記してありました」。そのとき、父がどのような気持ちだったのか、はじめて分かった。そう明彦は述懐する。